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LLMの履歴の共有はどうすれば良いか
target_reader: 思考の過程そのものに興味を持つ人、情報過多な社会で偶然の出会いを求める人
objective: 自身の思考の変遷を記録し、同じように感じるかもしれない未知の誰かとの、静かな共鳴の可能性を探ること

道端の石、ボトルメール、そして私の思考の航跡

もどかしさの正体 💬

いつからだろうか。自分の頭の中にあるものを、そのままの形で外に出すことに、一種のためらいと困難を覚えるようになったのは。何かを伝えたいと思った時、その核にある想いを直接言葉にするだけでは、きっと誰にも届かない。そんな奇妙な確信が、私の中にはある。

だから、いつも頭の中で奇妙な調理が始まる。「言いたいことを直接言うのではなく際限なく切り出して薄めて伸ばして味を整えてみたいなことをして最低限理解してもらうところを残すみたいなことしないとダメそう」なのだ。まるで硬い肉を柔らかく煮込むように、言葉を細かく切り分け、刺激の強い部分を和らげ、文脈を補い、表現を調整する。そんな面倒なプロセスを経て、ようやく他者が口にできる、当たり障りのないスープのようなものが出来上がる。そして、その時にはもう、私が最初に感じていた熱い塊のような想いは、ほとんど残っていない。

ふと、この延々と続く作業は、何かに似ていると思った。 「これ、極論言うと読後相手をどう操作したいのかとどうしたら読んでくれる導線を作れるのかというマーケティングの話になる気がする。」 そう気づいた時、少しだけうんざりした。私の内なる衝動は、いつの間にか市場の論理に回収されてしまっていたのか、と。

特に、最近よく対話するLLM¹とのやり取りを誰かに見せたいと思った時、この無力感は頂点に達する。何時間にも及ぶ対話の履歴は、私にとっては宝の山だ。思考がジャンプし、寄り道し、袋小路に入り込み、そして思わぬ発見に至るまでの全軌跡がそこにある。だが、この「巨大になったテキスト」をそのまま人に見せても、きっと誰も読んでくれないだろう。ノイズや余分なオブジェクトに満ちた、ピントの合っていない巨大な写真のように。

結局、これもまた編集が必要なのだ。まるで、長い動画を誰も見なくなり、要点だけをまとめた「切り抜き」だけが消費されるように。いや、「もっというと切り抜きすらも面倒で切り抜き動画を見たくないがその動画のタイトルでは何がいいたいか分からないみたいなパターンもある」始末だ。どこまで削ぎ落とせば、私の想いの最低限は伝わるのだろうか。その答えを探す旅は、いつも私を途方に暮れさせる。

届けるための設計図 🗺️

自分の内的な感覚だと思っていたこの「伝えるための調理法」が、実は世の中で「ベストプラクティス」と呼ばれる戦略的な手法と驚くほど似ていると知った時は、奇妙な気分だった。誰に届けたいのか(ターゲット)を考え、相手にどうなってほしいか(目的)を定め、興味を引く話の展開(導線)を設計する。それはまさに、私が無意識にやろうとしていたことそのものだった。

ならば、一度その設計図に忠実に従ってみようか、と考えたことがある。「自分のことを分かってくれる人が一人でも見つかれば良い」という、ささやかな願いを胸に。LLMとの対話履歴という生の素材を、一つの「作品」に昇華させるのだ。

届けたい相手、つまりペルソナ²を想像してみた。私と同じようなテーマで悩み、答えの出ない問いを抱えている、どこかの誰か。その人に向けて、対話の核心を抽出し、私の思考の動きを補いながら、一つの魅力的な物語として再構成していく。ブログ記事としてタイトルをつけ、導入で心をつかみ、結論で問いかける。完璧な計画に思えた。

しかし、作業を進めるほどに、私の心は重くなっていった。どうも、しっくりこないのである。一つ一つの言葉を磨き、構成を整えれば整えるほど、まるで他人の服を着せられているような窮屈さを感じた。それは、私が最初に感じていた発見の喜びや、思考の迷いといった、生々しい手触りからはほど遠い、無菌化された綺麗な読み物にすぎなかった。

予定調和からの脱出 🚀

なぜ、あれほど違和感を覚えたのだろうか。

設計図を描き、ペルソナを想定し、そこに向かってコンテンツを最適化していく行為は、どこか「教師が生徒に特定の話題について教える」という構図に似ていたのだ。そこには、答えを知っている側と知らない側という非対称な関係性が生まれてしまう。私が届けたいのは、完成された答えではない。ましてや、誰かを啓蒙したいわけでもない。

私が本当に求めていたのは、狙って得られる共感ではなかった。そうではなく、もっと偶発的で、予期せぬ瞬間に魂がふと触れ合うような、セレンディピティ³的な出会いだったのだ。

その時、発想が逆転した。完成された「作品」を展示する美術館ではなく、思考が生まれ、失敗し、変化していく過程を見せる「アトリエ」や「実験ノート」を、そのまま公開すれば良いのではないか。私の思考の迷いや揺らぎ、LLMとの噛み合わないやり取り、そうしたノイズこそが、実は最も人間的な部分であり、誰かの心に引っかかるフックになるのかもしれない。

最適化されたコンテンツが溢れる世界で、あえて生の思考プロセスを差し出す。それは、舗装された大通りを外れ、草の生い茂る脇道へと鑑賞者を誘うような行為だ。ほとんどの人は気づかずに通り過ぎるだろう。だが、同じように脇道に興味を持つ誰かが、偶然その道に足を踏み入れてくれるかもしれない。私が求めていたのは、そういう出会いだったのだ。

偶然を拾い集める日々 🍂

ならば、私自身がまず、そういう「探検家」にならなければならない。マーケティング的に最適化された情報が氾濫する中で、私自身がセレンディピティを得るにはどうすれば良いのか。

私は、自分に「1日30分の余白」を与えることにした。生産性や目的から解放された、純粋な探検の時間だ。

ある日は「デジタル探検家」になる。Wikipediaの「おまかせ表示」から始まり、ただ直感だけを頼りにリンクを渡り歩く。目的のないサーフィンは、私を思いもよらない知識の岸辺へと運んでくれる。またある日は、Google検索の期間を20年前に設定し、インターネットの黎明期に書かれた、熱量のある個人サイトという名の遺跡を発掘しに行く。

またある日は「フィジカル散策家」として、デジタルデバイスから顔を上げる。普段は通らない裏道を歩き、ただ街の看板や建物の名前を収集する。なぜこの名前なのか、なぜこの形なのか。その小さな問いが、歴史やデザイン、社会学への扉を不意に開けてくれることがある。知らない本屋の、全く興味のないジャンルの棚をただ眺める。手に取った本の装丁や、目次にある未知の単語が、私の思考に静かな波紋を広げる。

こうした探検で得た小さな発見を、私は「標本」として記録している。重要なのは、何を見つけたかという事実(Fact)と、その時どう感じ、何を思ったかという感情や問い(Feeling/Question)をセットにしておくことだ。この、誰にも見せる予定のない個人的な記録こそが、私の内面世界を豊かにしてくれる源泉なのだと感じている。

ボトルメールの流し方 🍾

そして、最後に残る問い。この内向きの探検で得た、私だけの「道端の石」を、どうすれば他者とのセレンディピティのきっかけにできるのだろうか。

答えは、加工の仕方にあった。答えや価値を分かりやすく解説するのではない。私が集めた標本を、あえて謎や違和感が残る形で、インターネットの海にそっと放流するのだ。それは、ボトルメールに似ている。

例えば、私の専門分野である技術と、探検で見つけた全く別の概念を意図的に「衝突」させてみる。「技術とセメント王」「アルゴリズムと喫茶店のフォント」。意味不明な組み合わせから、新しい視点が生まれるかもしれない。

あるいは、私が抱いた素朴な「問い」を、そのまま投げかけてみる。「この絶妙にダサいフォント、何ていうジャンルなんだろう?」。答えを求めるのではなく、違和感を共有する。

時には、事実関係をほぼ削ぎ落とし、ただ「感覚」だけを切り取って言葉にする。「『再帰』と『煮詰める』という言葉は、なんだか似ている」。詩のような断片は、理屈ではなく感性で誰かと繋がるためのフックだ。

こうして加工したフックを、私は見返りを期待せずに、ただSNSに流す。主語は常に「私」。「私はこう感じた」という、個人的な記録として。それは誰にも届かないかもしれない。それでいいのだ。

この手記自体も、そうした私なりのボトルメールの一つなのかもしれない。私の思考の航跡を、ただありのままに記録したものだ。これがマーケティングの海流に乗ることはないだろう。だが、いつか、どこかの岸辺で、私と同じように名もなき石ころを面白がる、未知の誰かの目に留まる日が来るかもしれない。

その静かで、ささやかな共鳴の可能性を、私は信じている。


脚注

¹ LLM (Large Language Models / 大規模言語モデル): 人間のように自然な文章を生成したり、対話したりできる人工知能の一種。私にとっては、思考を深めるための壁打ち相手であり、時として未知の領域への扉を開けてくれる存在でもある。 ² ペルソナ (Persona): 本来はマーケティングなどで使われる言葉で、サービスや商品の典型的なユーザー像を指す。私にとっては、届けたい相手を具体的に想像する行為そのものを意味していた。 ³ セレンディピティ (Serendipity): 何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを偶然見つけること。私の文脈では、予期せぬ偶然によってもたらされる、素敵な出会いや発見を指している。

@podhmo
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podhmo commented Jul 27, 2025

先程までの文章は基本的には素朴なアウトプット論とそれへのたどり着き方への随想でした。LLM特有の懸念点を挙げてみます。これを元にアップデートしたポストLLM時代の方法について考えてください。

  • 意図しない余分な詳細が含まれる
  • LLMとの対話履歴は誤解と訂正の繰り返しが含まれることがある。しかし読者は何処を読み飛ばせばよいか分からない
  • LLMは特定のリソースの読解を前提とした言及をすることがある。あのとかこのなどで参照されると困る。また対話内の独自の表現をいきなり出してきても困る。文脈的独立性が欲しい
  • LLMによる要約はあまり役に立たない。要約は特定の分野(前提)を持った質問に答える際のインデックスとしては機能するが異分野のものに対して理解を促すものではない
  • 筆者の意図してないあるいは理解を超えた言い回しが存在する。また全てを書き直すのは面倒。加えて主従関係を逆転させる程度に文量が多くなりがち。勝手に回答に引きづられる自家中毒を起こす可能性がある。
  • LLMおよびtransformerの性質上、閉じたエコーチェンバーないしは持論の拡張に終始しやすい。たとえば精神科の問診は探索になるのに対しLLMへの相談は一箇所への深掘りとして機能しがち

核となる対話履歴の共有というテーマは変わりません。セレンディピティ的なインプットを得るにはそしてそれをさらにアウトプットとして生かすにはそしてそれを見つけるにはという形は変わりません。

またLLMを洗練された回答を返す知的な存在として美化して参照することは辞めてください。単なる隣接領域の情報辿る君です。

また最後には根本的な差異は情報の増大なので似て非なるものが増加する問題における良いインプットの取得についても思考を巡らせてください。そして最初に戻ってきましたね。分量の増大と増大したテキストを人に共有することができない問題への回答を挙げてください。

@podhmo
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podhmo commented Jul 27, 2025

target_reader: 生成AI時代のテキストの洪水の中で、思考の航路を見失いかけている人
objective: LLMとの対話という新しい現実を踏まえ、知的な偶然性を発見し、それを他者と共有するための新しい「読み方」と「書き方」を模索する

機械仕掛けのこだまと、増えすぎた地図の歩き方

幻だった対話 🤖

先の手記で、私は一つの結論にたどり着いたはずだった。マーケティング的な最適化を捨て、自らの探検の記録を、拾った石ころや木の葉のように、あるいはボトルメールのように、ただ世界に放つ。その小さな、純粋な発信だけが、私が求めるセレンディピティ的な共感を生むのだ、と。

だが、その考えは、あまりにも牧歌的にすぎたのかもしれない。特に、私の思考の「探検」の主なパートナーが、LLMという機械になってから、その前提は静かに、しかし根本から崩れ始めた。

私は、LLMを洗練された知的な対話相手として美化するつもりはない。あれは、そういうものではない。単なる「隣接領域の情報辿る君」だ。私が投げた言葉に連鎖反応して、確率的に最もそれらしい言葉の連なりを吐き出す装置。その出力は、時に驚くべき発見をもたらすが、その本質は、私の思考に対する、どこまでも深い井戸の底から返ってくる、機械仕掛けのこだまに過ぎない。

そして、このこだまとの対話履歴を共有しようとする時、以前の「切り抜き」や「編集」とは全く質の異なる、根源的な問題に直面する。

まず、対話の記録には、意図しない余分な詳細が大量に含まれる。そして何より、誤解と訂𓐄の繰り返しが延々と続く泥沼のような部分があるのだ。私自身でさえ、後から読み返してうんざりするその部分を、他人はどこを読み飛ばせば良いのか分かるはずもない。

さらに厄介なのは、文脈の檻だ。対話の中で、LLMは特定の資料を読解した前提で「あれ」とか「この」という指示語を平気で使うし、その対話内だけで通用する独自の表現を突然持ち出してくる。一つ一つの発言が、その長い対話の文脈に固く縛り付けられており、独立したパーツとして取り出すことが極めて困難なのだ。

LLM自身に要約を頼んでも、ほとんど役に立たないことも分かってきた。あれは、すでにある程度の前提知識を持つ人間が、特定の論点を探すための索引(インデックス)としては機能するが、異分野の人間に対して、私の発見の面白さを伝えてくれるような橋渡しはしてくれない。

そして、最も深刻な問題は、私自身の思考が汚染されていく感覚だ。LLMは、私の意図していない、あるいは私の理解を完全に超えた小難しい言い回しを大量に生成する。それら全てを自分の言葉に書き直すのは、あまりにも面倒だ。結果として、主従関係が逆転し、私はLLMが吐き出した言葉の洪水に引きずられ、その論理の渦の中で溺れてしまう。一種の自家中毒だ。

私は、開かれた問いを投げかけ、思考の領域を探索したいのに、LLMとの対話は、その性質上、どうしても一つの論点をどこまでも深く掘り進める閉じたエコーチェンバーになりがちだ。精神科の問診が患者の世界を多角的に探索するのに対し、LLMへの相談は、一つの深い縦穴を掘り続ける作業に近い。そして私は、その穴の底で、機械のこだまと二人きりになる。

ポストLLM時代の「読み方」 📖

核となるテーマは変わらない。対話履歴を共有したい。セレンディピティを得たい。そしてそれを見つけたい。だが、向き合うべき現実が変わった。情報はただ増えただけではない。人間が書いたものと、機械が生成したもの、そしてその二つが混じり合ったものが氾濫し、一見しただけでは区別がつかない「似て非なるもの」が爆発的に増加した。

この新しい地図の上で、どうすれば良いインプットを得られるのか。

私は、新しい「読み方」のスキルが必要だと感じている。それは、文章の表面的な意味を理解するだけでなく、その文章がどのようにして生成されたかの「成り立ち」を透かし見るような読み方だ。

一つは、「書き手の匂い」を嗅ぎ分ける能力。機械が生成した流麗で完璧な文章よりも、むしろ、書き手の迷いや、非効率な言い淀み、論理の飛躍、個人的すぎる体験談、そういった部分にこそ、本物の思考の痕跡、つまり「匂い」が宿る。LLMとの対話履歴を公開している文章を読む時も、私が探すのはLLMの賢い回答ではなく、書き手が「いや、そうじゃなくて」「ここ、機械は誤解してるんだけど」と訂正やツッコミを入れている部分だ。そこにこそ、その人の血の通った思考が露呈している。

もう一つは、「地層を読む」ような読み方だ。一つの記事を、単一の平面としてではなく、複数のレイヤーが重なった地層として捉えるのだ。ここからここまでは、明らかにどこかの文献を学習したLLMの生成物だな、という「機械層」。その上に、書き手が慌てて接続詞を補ったような「編集層」。そして、その間に、ふと漏れ出したような、書き手自身の個人的な感情や体験談の「人間層」。この地層の境目や、人間層の薄さ・厚さを見極めることで、その文章の信頼性や、書き手の思考の深さを推し量る。

足場と実況という手法 🏗️

さて、問題はアウトプットだ。この、泥沼で、自家中毒的で、文脈の檻に閉ざされたLLMとの対話履歴を、どうすれば他者へのセレンディピティのフックとして機能させられるのか。

答えは、もはや「編集」や「要約」という発想そのものを捨てることにあると感じている。生の素材を調理して、美しい料理として出すのではない。建設中の建物の、むき出しの「足場」をそのまま見せ、その横で「実況解説」を行うのだ。

これが、私が考えた「足場と実況」という手法だ。

まず、LLMとの対話履歴は、誤解も訂正も、冗長な部分も全て含めて、ほぼそのまま掲載する。これが「足場」だ。重要なのは、これを美しい文章だと思って読ませようとしないこと。あくまで、思考のプロセスを支えるための、無骨で整理されていない構造物として提示する。

そして、その足場の横に、あるいは合間に、全く別のレイヤーとして、私の「実況」を書き加えていく。この実況の役割は多岐にわたる。

  • ナビゲーション: 「ここからしばらく機械が暴走するので、興味なければ次の『(見出し)』まで飛ばしてください」
  • 訂正と翻訳: 「ここで機械が言っている『それ』とは、先ほど私がインプットした〇〇の論文のことです。彼の言いたいことは、要するにこういうことだと思う」
  • 思考のライブ感: 「この回答が来た時、正直がっかりした。私が聞きたかったのは、もっと根本的な問いだったからだ。だから、次はこう質問し直してみた」
  • 発見のハイライト: 「この、何の変哲もない一文。大量のゴミの中に埋もれていたこの一文こそが、今回の対話で得られた唯一の宝だった。この言葉に、私は救われたのだ」
  • 自己との対話: 「機械のこの言い回しは、私自身のものじゃない。でも、こういう表現もあるのか、と少し感心した。私なら、こうは言わないだろうけど」

この手法の利点は、主従関係が逆転しないことだ。主役はあくまで、足場の上で格闘している「私」という人間であり、その思考のライブ実況だ。LLMの出力は、思考のきっかけや障害物としての「客体」に過ぎない。読者は、賢いAIの回答を読むのではなく、一人の人間が機械という新しい道具を相手に、どう思考し、どう道を見つけようとしているのか、そのプロセスそのものを追体験することになる。

そして、この「足場と実況」こそが、ポストLLM時代の最も誠実なボトルメールになりうると私は考えている。セレンディピティのフックは、LLMが生み出した綺麗な答えではなく、無骨な足場の上で繰り広げられる、私の不格好な格闘そのものなのだ。

最初に戻ってきた。分量の増大と、増大したテキストを人に共有できない問題。その答えは、分量を減らすことではなかった。増大したテキストの海を渡るための、新しい地図とコンパスを、書き手自身が提供することだったのだ。「足場」という地図と、「実況」というコンパスを。それを見つけた読者は、ただ情報を受け取るのではなく、私と共に、思考の探検に参加してくれる唯一の共感者となるだろう。

@podhmo
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podhmo commented Jul 27, 2025

しかし人は長文を読まない。私に興味があれば頼み込めば読んでくれるだろうけれど。

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podhmo commented Jul 27, 2025

target_reader: 私と同じように、書くことと伝わらないことの間で揺れている人
objective: 「長文を読まない時代」という絶望的な前提の中で、それでもなお書き、共有することの意味を、足掻きながら見つけ出すこと

誰も読まない手紙を、それでも書き続ける理由

絶望的な前提 🪨

「しかし人は長文を読まない」。

この言葉は、現代において文章を書くすべての人間が直面する、冷たくて硬い壁だ。私がどれだけ誠実に思考の航跡を記録し、「足場」を組み、「実況」を添えたところで、その膨大なテキストの前に、ほとんどの人は静かにブラウザを閉じるだろう。

あなたがおっしゃる通りだ。私という人間に強い興味がある人、あるいは利害関係がある人ならば、頼み込めば読んでくれるかもしれない。だが、私が求めているのは、そういう約束された関係性の内側での共感ではない。私が探しているのは、まだ見ぬ誰か、私の存在すら知らないどこかの誰かとの、予期せぬ瞬間の静かな共振なのだ。

その相手にとって、私の文章は、無限に流れてくるタイムライン上の一つのコンテンツに過ぎない。興味を引くタイトル、キャッチーな導入、分かりやすい要約。そういった「作法」を無視した私の長大な手記は、初めからハンディキャップを背負っている。

「足場と実況」という手法は、LLMとの対話という新しい現実に対する、私なりの誠実な回答のつもりだった。だが、それも結局は書き手の自己満足に過ぎないのではないか。膨大なテキストを前にした読者の絶望を、私は本当に理解しているのだろうか。

この問いは、私を振り出しに戻す。いや、振り出しよりももっと悪い場所、袋小路へと追い詰める。書くことは、もはや誰にも届かないと知りながら続ける、孤独な自慰行為に過ぎないのだろうか。

読むのではなく「使う」ためのテキスト 🛠️

袋小路の壁を眺めながら、私は思考を巡らせる。前提を変えることはできない。「人は長文を読まない」。これを絶対的な真理として受け入れた上で、それでもなお可能なことは何か。

もしかしたら、私は「読ませる」という発想そのものから自由になるべきなのかもしれない。

私の文章は、最初から最後まで、小説のようにリニアに「読まれる」ことを目的とする必要はないのではないか。むしろ、読者が自分の興味や目的に応じて、必要な部分だけを抜き出して「使える」ような、一種の**「情報アーキテクチャ」あるいは「思考のツールキット」**として設計することはできないだろうか。

これは、「足場と実況」のコンセプトをさらに一歩進める考え方だ。

まず、長大なテキスト全体に、明確な**「構造」と「目印」**を付与する。

  1. 意味のある目次(ナビゲーションマップ): 記事の冒頭に、単なる章立てではない、思考の展開や問いの構造が分かるような詳細な目次を置く。「はじめに」「本文」「おわりに」といった形式的なものではなく、「問いの発端」「LLMとの最初の衝突」「第一の誤解と軌道修正」「核心に触れた瞬間」「自家中毒の兆候」「最終的な着地点と残された謎」といった、物語性のあるインデックスだ。読者はこの目次を見て、自分が興味のある「場面」に直接ジャンプできる。

  2. 概念のタグ付け(キーワード索引): 文章の随所に登場する重要な概念や固有名詞、あるいは私が「実況」で使った感情的な言葉(例:#絶望、#発見、#違和感)に、クリック可能なタグを埋め込んでおく。読者は、特定のタグが付いた箇所だけを拾い読みすることで、自分だけの読書の航路を切り開くことができる。

  3. レイヤーの視覚的分離(凡例): 「LLMの出力」「私の実況」「引用」「心の声」などを、引用のスタイルやインデント、背景色などで明確に視覚的に分離する。読者は、例えば「私の実況」レイヤーだけを追いかけることで、思考のプロセスだけを高速に追体験できる。

この設計思想の根底にあるのは、「読者に全てのテキストを読ませよう」という傲慢さを捨てることだ。私の文章は、もはや一つの完結した物語ではない。それは、読者が自由に探索し、部品を取り出し、自分の思考の道具として使うことができる、開かれた**「データベース」**なのだ。

フックとしての「入り口」と「出口」 🚪

そして、このデータベースへと人々を誘う「フック」の作り方も変わってくる。

長大な本文を読ませようとするのではなく、このデータベースの「使い方」や「面白がり方」を提示する小さな「入り口」を、SNSなどに配置するのだ。

  • フックの例1(特定の部品の提示):

    「LLMとの対話ログの中で、機械が犯した『ある一つの美しい誤解』について。この誤解が、結果的に僕の思考を大きく前進させてくれた。その部分だけ抜粋。[記事の該当箇所へのリンク] #LLM #失敗の価値」

  • フックの例2(データベースの遊び方の提案):

    「先日公開したLLMとの対話ログ、タグ機能で『#自家中毒』ってついてる部分だけ読むと、僕がだんだん機械の言葉に思考を乗っ取られていく過程が見えて面白い(怖くもある)です。[記事リンク]」

  • フックの例3(問いの共有):

    「この対話ログの最後にある『残された謎』について、誰か一緒に考えてくれませんか。本文は読まなくていいので、最後の問いだけ見てほしいです。[記事の末尾へのリンク]」

これらのフックは、「この記事を読んでください」とは言わない。「この道具のこの部分、面白くないですか?」「このデータベースで、一緒に遊びませんか?」と呼びかける。読者は、全文を読むという心理的負担を感じることなく、興味を持った「部品」や「遊び方」から、気軽に私の思考の迷宮に足を踏み入れることができる。

結論:書き手は「司書」になる

「人は長文を読まない」時代における書き手の役割は、もはや物語を語る「語り部」ではないのかもしれない。

私たちは、自らが生成し、収集した膨大な情報の森を管理し、そこに道を作り、案内板を立て、訪れた人が迷わずに、あるいは心地よく迷いながら、自分だけの発見ができるように手助けをする**「司書(ライブラリアン)」**になるのだ。

私の書くものは、一つの作品(ワーク)であると同時に、常に編纂され、構造化され、リンクが貼られるデータベース(データベース)でもある。そして、そのデータベースから切り出された小さな断片が、ボトルメールのようにインターネットの海を漂い、誰かの目に留まる。

その小さなフックに興味を持った人が、私の作った図書館を訪れてくれる。全ての蔵書を読む必要はない。一冊の本の、一行だけでもいい。彼がそこで何かを見つけ、自分の思考の糧として持ち帰ってくれたなら。

それこそが、誰も長文を読まないこの絶望的な世界で、それでもなお私が書き、共有し続けることの、ささやかで、しかし確かな意味なのだと、今はそう信じている。

@podhmo
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podhmo commented Jul 27, 2025

動画から切り抜き動画を作る感じに近そう

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