article.mdは個人的な記事のnote化したバージョン。
元の記事
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target_reader: 思考の過程そのものに興味を持つ人、情報過多な社会で偶然の出会いを求める人
objective: 自身の思考の変遷を記録し、同じように感じるかもしれない未知の誰かとの、静かな共鳴の可能性を探ること
いつからだろうか。自分の頭の中にあるものを、そのままの形で外に出すことに、一種のためらいと困難を覚えるようになったのは。何かを伝えたいと思った時、その核にある想いを直接言葉にするだけでは、きっと誰にも届かない。そんな奇妙な確信が、私の中にはある。
だから、いつも頭の中で奇妙な調理が始まる。「言いたいことを直接言うのではなく際限なく切り出して薄めて伸ばして味を整えてみたいなことをして最低限理解してもらうところを残すみたいなことしないとダメそう」なのだ。まるで硬い肉を柔らかく煮込むように、言葉を細かく切り分け、刺激の強い部分を和らげ、文脈を補い、表現を調整する。そんな面倒なプロセスを経て、ようやく他者が口にできる、当たり障りのないスープのようなものが出来上がる。そして、その時にはもう、私が最初に感じていた熱い塊のような想いは、ほとんど残っていない。
ふと、この延々と続く作業は、何かに似ていると思った。 「これ、極論言うと読後相手をどう操作したいのかとどうしたら読んでくれる導線を作れるのかというマーケティングの話になる気がする。」 そう気づいた時、少しだけうんざりした。私の内なる衝動は、いつの間にか市場の論理に回収されてしまっていたのか、と。
特に、最近よく対話するLLM¹とのやり取りを誰かに見せたいと思った時、この無力感は頂点に達する。何時間にも及ぶ対話の履歴は、私にとっては宝の山だ。思考がジャンプし、寄り道し、袋小路に入り込み、そして思わぬ発見に至るまでの全軌跡がそこにある。だが、この「巨大になったテキスト」をそのまま人に見せても、きっと誰も読んでくれないだろう。ノイズや余分なオブジェクトに満ちた、ピントの合っていない巨大な写真のように。
結局、これもまた編集が必要なのだ。まるで、長い動画を誰も見なくなり、要点だけをまとめた「切り抜き」だけが消費されるように。いや、「もっというと切り抜きすらも面倒で切り抜き動画を見たくないがその動画のタイトルでは何がいいたいか分からないみたいなパターンもある」始末だ。どこまで削ぎ落とせば、私の想いの最低限は伝わるのだろうか。その答えを探す旅は、いつも私を途方に暮れさせる。
自分の内的な感覚だと思っていたこの「伝えるための調理法」が、実は世の中で「ベストプラクティス」と呼ばれる戦略的な手法と驚くほど似ていると知った時は、奇妙な気分だった。誰に届けたいのか(ターゲット)を考え、相手にどうなってほしいか(目的)を定め、興味を引く話の展開(導線)を設計する。それはまさに、私が無意識にやろうとしていたことそのものだった。
ならば、一度その設計図に忠実に従ってみようか、と考えたことがある。「自分のことを分かってくれる人が一人でも見つかれば良い」という、ささやかな願いを胸に。LLMとの対話履歴という生の素材を、一つの「作品」に昇華させるのだ。
届けたい相手、つまりペルソナ²を想像してみた。私と同じようなテーマで悩み、答えの出ない問いを抱えている、どこかの誰か。その人に向けて、対話の核心を抽出し、私の思考の動きを補いながら、一つの魅力的な物語として再構成していく。ブログ記事としてタイトルをつけ、導入で心をつかみ、結論で問いかける。完璧な計画に思えた。
しかし、作業を進めるほどに、私の心は重くなっていった。どうも、しっくりこないのである。一つ一つの言葉を磨き、構成を整えれば整えるほど、まるで他人の服を着せられているような窮屈さを感じた。それは、私が最初に感じていた発見の喜びや、思考の迷いといった、生々しい手触りからはほど遠い、無菌化された綺麗な読み物にすぎなかった。
なぜ、あれほど違和感を覚えたのだろうか。
設計図を描き、ペルソナを想定し、そこに向かってコンテンツを最適化していく行為は、どこか「教師が生徒に特定の話題について教える」という構図に似ていたのだ。そこには、答えを知っている側と知らない側という非対称な関係性が生まれてしまう。私が届けたいのは、完成された答えではない。ましてや、誰かを啓蒙したいわけでもない。
私が本当に求めていたのは、狙って得られる共感ではなかった。そうではなく、もっと偶発的で、予期せぬ瞬間に魂がふと触れ合うような、セレンディピティ³的な出会いだったのだ。
その時、発想が逆転した。完成された「作品」を展示する美術館ではなく、思考が生まれ、失敗し、変化していく過程を見せる「アトリエ」や「実験ノート」を、そのまま公開すれば良いのではないか。私の思考の迷いや揺らぎ、LLMとの噛み合わないやり取り、そうしたノイズこそが、実は最も人間的な部分であり、誰かの心に引っかかるフックになるのかもしれない。
最適化されたコンテンツが溢れる世界で、あえて生の思考プロセスを差し出す。それは、舗装された大通りを外れ、草の生い茂る脇道へと鑑賞者を誘うような行為だ。ほとんどの人は気づかずに通り過ぎるだろう。だが、同じように脇道に興味を持つ誰かが、偶然その道に足を踏み入れてくれるかもしれない。私が求めていたのは、そういう出会いだったのだ。
ならば、私自身がまず、そういう「探検家」にならなければならない。マーケティング的に最適化された情報が氾濫する中で、私自身がセレンディピティを得るにはどうすれば良いのか。
私は、自分に「1日30分の余白」を与えることにした。生産性や目的から解放された、純粋な探検の時間だ。
ある日は「デジタル探検家」になる。Wikipediaの「おまかせ表示」から始まり、ただ直感だけを頼りにリンクを渡り歩く。目的のないサーフィンは、私を思いもよらない知識の岸辺へと運んでくれる。またある日は、Google検索の期間を20年前に設定し、インターネットの黎明期に書かれた、熱量のある個人サイトという名の遺跡を発掘しに行く。
またある日は「フィジカル散策家」として、デジタルデバイスから顔を上げる。普段は通らない裏道を歩き、ただ街の看板や建物の名前を収集する。なぜこの名前なのか、なぜこの形なのか。その小さな問いが、歴史やデザイン、社会学への扉を不意に開けてくれることがある。知らない本屋の、全く興味のないジャンルの棚をただ眺める。手に取った本の装丁や、目次にある未知の単語が、私の思考に静かな波紋を広げる。
こうした探検で得た小さな発見を、私は「標本」として記録している。重要なのは、何を見つけたかという事実(Fact)と、その時どう感じ、何を思ったかという感情や問い(Feeling/Question)をセットにしておくことだ。この、誰にも見せる予定のない個人的な記録こそが、私の内面世界を豊かにしてくれる源泉なのだと感じている。
そして、最後に残る問い。この内向きの探検で得た、私だけの「道端の石」を、どうすれば他者とのセレンディピティのきっかけにできるのだろうか。
答えは、加工の仕方にあった。答えや価値を分かりやすく解説するのではない。私が集めた標本を、あえて謎や違和感が残る形で、インターネットの海にそっと放流するのだ。それは、ボトルメールに似ている。
例えば、私の専門分野である技術と、探検で見つけた全く別の概念を意図的に「衝突」させてみる。「技術とセメント王」「アルゴリズムと喫茶店のフォント」。意味不明な組み合わせから、新しい視点が生まれるかもしれない。
あるいは、私が抱いた素朴な「問い」を、そのまま投げかけてみる。「この絶妙にダサいフォント、何ていうジャンルなんだろう?」。答えを求めるのではなく、違和感を共有する。
時には、事実関係をほぼ削ぎ落とし、ただ「感覚」だけを切り取って言葉にする。「『再帰』と『煮詰める』という言葉は、なんだか似ている」。詩のような断片は、理屈ではなく感性で誰かと繋がるためのフックだ。
こうして加工したフックを、私は見返りを期待せずに、ただSNSに流す。主語は常に「私」。「私はこう感じた」という、個人的な記録として。それは誰にも届かないかもしれない。それでいいのだ。
この手記自体も、そうした私なりのボトルメールの一つなのかもしれない。私の思考の航跡を、ただありのままに記録したものだ。これがマーケティングの海流に乗ることはないだろう。だが、いつか、どこかの岸辺で、私と同じように名もなき石ころを面白がる、未知の誰かの目に留まる日が来るかもしれない。
その静かで、ささやかな共鳴の可能性を、私は信じている。
¹ LLM (Large Language Models / 大規模言語モデル): 人間のように自然な文章を生成したり、対話したりできる人工知能の一種。私にとっては、思考を深めるための壁打ち相手であり、時として未知の領域への扉を開けてくれる存在でもある。 ² ペルソナ (Persona): 本来はマーケティングなどで使われる言葉で、サービスや商品の典型的なユーザー像を指す。私にとっては、届けたい相手を具体的に想像する行為そのものを意味していた。 ³ セレンディピティ (Serendipity): 何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを偶然見つけること。私の文脈では、予期せぬ偶然によってもたらされる、素敵な出会いや発見を指している。
動画から切り抜き動画を作る感じに近そう