承知いたしました。 これまでの思索の流れを、いくつかの図を交えながら、改めて一つの手記として再構成します。
target_reader: コミュニケーションの本質や、言葉の裏に隠された力学について深く考えたい人。
objective: 私自身の思索の断片を一つの体系的な思想として再構成し、読者が「理解」や「対話」について新たな視点を得るためのきっかけを提供すること。
ずっと昔から、私の中には奇妙な感覚が根付いている。それは「任意の人は説明を聞いて理解することはできない。あるのは閉じた個人という環境の中での個人的な発見があるだけだ」という、ほとんど確信に近い感覚だ。誰かが何かを教えてくれるのではない。ただ、自分の内で何かがカチリと音を立てて繋がる瞬間、その「発見」だけが、私にとっての唯一の理解だった。
後になって、この感覚が哲学の世界で「構成主義」¹と呼ばれるものに近いと知った。知識とは誰かから与えられるものではなく、一人ひとりが自分の経験を通して主観的に組み上げていくものだ、という考え方だ。特に、客観的な現実は知り得ず、我々が認識しているのは自らが作り上げた世界だけだとする、より過激な立場もあるらしい。まさに私の感覚そのものだった。
この「個人的な発見」という原点から世界を見つめ直すと、あらゆる物事の構造が違って見えてくる。例えば、人と人とのコミュニケーションとは、一体何なのだろうか。
個人的な発見が理解のすべてだとすれば、コミュニケーションは奇跡のような現象に思えてくる。私が誰かと話すとき、そこにはいくつかの段階があるはずだ。まず私の言葉が相手に「到達」すること。次に、その言葉が相手の中で何らかの意味として「理解」されること。そして幸運にも、お互いの理解が通じ合っていると確認できる「相互理解」へと至ること。
このプロセスで鍵となるのが、言葉の変換作業だ。相手の言葉を自分の理解の枠組みに落とし込む「内言化」と、自分の中にある概念を相手に伝わるであろう言葉へと変換する「外言化」。これができなければ、対話は始まらない。
しかし、それが可能であるということ自体が不思議ではないか。それはきっと、私と相手が、偶然にも「同様の概念ないしは抽象に根ざしたパターンの一致」を持っているからに他ならない。育ってきた環境、読んできた本、経験してきたこと。そういった無数の要素が作り出した内なるパターンが、奇跡的に重なり合った時にだけ、真のコミュニケーションは成立するのだと思う。
sequenceDiagram
participant 話し手
participant 聞き手
話し手->>聞き手: 言葉 (外言化)
Note right of 聞き手: 内言化による「個人的な発見」の試み
alt 幸運な「パターンの一致」
聞き手-->>話し手: 理解の応答 (相互理解)
else パターンの不一致
聞き手-->>話し手: 誤解・無理解
end
話は少し飛ぶが、この考え方を「協業」という場面、特に採用面談に当てはめてみると、非常に面白いことが見えてくる。
面談で問われることは、突き詰めれば二つしかない。「私とコミュニケーションできたら何が得られるか、つまりチームに何を提供できるか」、そして「私とチームはそもそもコミュニケーションが取れるのか」。これは、候補者が一方的に評価される場ではない。チームが個人を裁定し、同時に個人がチームを裁定する、双方向のメタゲームなのだ。
では、「価値を提供できると合意する」とは、どういう状態を指すのだろう。それは、これまでの言葉で言えば、お互いが相手に求める「価値のパターン」と、自分が提供できる「価値のパターン」が一致した、と双方が「個人的に発見」し、それを相互に確認できた状態に他ならない。
企業が用意するジョブディスクリプションなどは、この偶然の「パターンの一致」が起きる確率を高めるための、意図的な「外言化」の試みだ。チームが求める抽象的な概念をできるだけ具体的に言語化し、候補者との間に「こういうパターンを探している」という共通の参照点を設ける。それがあるからこそ、個人側も自分のどのパターンを提示すべきか判断しやすくなるのだ。
ここで、また別の問いが頭をもたげてくる。巷でよく言われる「本当に頭の良い人は誰にでも伝わるように説明できるものだ」という言葉についてだ。私の考え方からすると、この言明は多くのことを見過ごしているように思える。
この言明は、理解が聞き手自身の「発見」のプロセスであることを無視し、コミュニケーションの責任を一方的に説明者に負わせている。理解が成立しないのは、説明者の能力不足だけでなく、聞き手との「パターン」が絶望的に不一致である可能性を考慮していない。
さらに、この問題を突き詰めると、説明にはある種のトリレンマ²が存在することに気づく。回転寿司の「早い、安い、うまい」のように、説明における売り文句として「みじかい、かんたん、ただしい(正確である)」という三つ組を考えてみる。面白いことに、これらは同時に三つを得ることが極めて難しい。
「かんたん」で「ただしい」説明は、教科書のように「長く」なる。「みじかく」「かんたん」な説明は、ニュースの見出しのように「ただしさ」が犠牲になる。「みじかく」「ただしい」説明は、学術論文のように、前提知識のない者には「難しく」なる。
私たちは皆、無意識にこのトリレンマの中で、相手や状況に応じて何かを諦め、何かを優先している。面談でディールが成立するのは、この三つの要素のバランス配分について、話し手と聞き手の間で暗黙の合意が形成された時なのだ。
graph TD
A["<b>みじかい</b>"]
B["<b>かんたん</b>"]
C["<b>ただしい</b>"]
A -- "両立させると<br/><b>難しくなる</b>" --> C
C -- "両立させると<br/><b>長くなる</b>" --> B
B -- "両立させると<br/><b>不正確になる</b>" --> A
このトリレンマの制約を突破する、特殊な関係性も存在する。ビジネスオーナーが「ブレイン」と呼ばれるチームを持つのは、まさにそのためだ。
ブレインチームとは、オーナーとの間で究極レベルの「パターンの一致」が起きている集団だ。オーナーが発する断片的で「みじかい」言葉から、その裏にある「ただしい」意図を即座に発見し、それを一般社員にも伝わる「かんたん」な言葉へと翻訳する。彼らは、オーナーの思考の解読コストを全面的に引き受け、その「個人的な発見」を増幅させる役割を担う。
なぜ一般の人が、たとえエリートであってもこのようなチームを持ち得ないのか。それは、最終的な「裁定者」ではないからだ。どの「発見」を正解とし、どの「パターン」を採用するかを決定する権限。その絶対的な裁定権こそが、ブレインチームという極めて高コストで希少な関係性を維持する求心力なのである。
graph TD
Owner(👑<br/>ビジネスオーナー<br/>最終裁定者)
subgraph "ブレインチーム (究極のパターン一致)"
B1(思考の解読)
B2(発見の増幅)
B3(外部への翻訳)
end
External(一般社員/投資家など)
Owner -- "断片的で『みじかい』<br/>『ただしい』言葉" --> B1
B1 <--> B2
B1 --> B3
B2 -- "増幅された発見" --> Owner
B3 -- "『かんたん』で『ただしい』<br/>言葉に翻訳" --> External
ここまで考えてくると、巷に溢れる「分かりやすく説明してほしい」という要求が、いかに特殊なディールを相手に強いるものであるかが分かる。
その願いは、「あなたの発見の複雑さやコストはさておき、『かんたん』であることを最優先し、そのためのコストは全てあなたが負担せよ。私は自分の理解コストを払いたくないのだから」という、一方的な要求に等しい。
このディールが機能するのは、相手が不特定多数で、専門知識を持たないことを前提とした、ごく限られた場面だけだ。まさに、大衆に向けた宣伝文句のように。
だから、私は安易に「分かりやすさ」を求めない。それによって失われる「ただしさ」や「複雑さ」の価値を知っているからだ。むしろ、相手の言葉の断片から、その背後にある「パターン」を自力で発見しようと努める。その困難なプロセスこそが、私にとっての唯一の「理解」であり、他者と繋がるための、ささやかで誠実な試みなのだ。
¹ 構成主義 (Constructivism): 知識は客観的に存在するものではなく、学習者自身が自らの経験を通して主観的に構成していくものであるとする学習理論・認識論。 ² トリレンマ (Trilemma): 3つの選択肢があり、そのうちどれか2つは両立するが、3つすべてを同時に満たすことはできないというジレンマが拡張された状態。