1. 伝説のコテハン、山を降りる
ツァラトゥストラが30歳になったとき、彼は決意した。「俗世間とかいうクソゲー、もうやってらんねぇ」。そう言って彼は故郷の町と、よく釣りをした湖に別れを告げ、山へと引きこもった。リアルからのログアウトである。
ここで彼は、己の精神という名の果てしない沼と、誰にも邪魔されない孤独という名の快適なネット環境を享受し、10年もの間、賢者としてのレベル上げに没頭した。……というのは建前で、要はガチの引きこもりである。
しかし、40歳を目前にしたある日、ついに彼の心に変化が訪れた。悟りを開いたのではない。単純に、飽きたのだ。
そしてある朝、彼は日の出とともにむくりと起き上がり、洞窟の入り口から顔を出し、天に輝く太陽(物理)に向かって、こう語りかけた。完全にヤバい人である。
「おお、偉大なる太陽神(アポロン)よ! もしアンタが、照らしてやる下々の民を持たなかったら、その幸福(ハピネス)は何の意味があったでしょうかねぇ!?」
突然のタメ口、そして上から目線。太陽もさぞかし困惑したことであろう。
「この10年間、アンタは毎日毎日、俺の洞窟までわざわざ登ってきてくれた。だが言わせてもらおう! この俺と、俺のペットの鷲、そして蛇がいなかったら、アンタはとっくにその光を届けるだけの単調な作業に飽き飽きしていたはずだ! 俺たちがいてやったから、アンタの存在は輝いていたのだ!」
もはや感謝を強要するレベルである。
「だがしかし! 俺たちは毎朝アンタを待ちわび、その有り余るエネルギー(サンシャイン)を受け取ってやった。そしてその対価として、アンタを祝福してやったのだ。感謝したまえ!」
「見ろ! 俺は、蜜を集めすぎた蜂のように、自分の知恵に飽き飽きしている! 蜂蜜(知識)がありすぎて、もうギガがパンパンなんだよ! 誰か、この有り余る俺の知恵(ハチミツ)を受け取る手はないのか!?」
「俺は、与えたい! 分け与えたいのだ! 愚かな人間どもが、再び己の愚かさを笑い飛ばせるように! 貧しい者たちが、再び己の富(精神的な意味で)を喜べるように! 俺の『ぼくのかんがえたさいきょうの哲学』を授けてやろうじゃないか!」
「そのためには、俺は深淵へと降臨しなければならない! そう、アンタが毎晩、海の向こうへと沈んでいくように! それでも下界に光をもたらす、おお、エネルギー過多の太陽よ!」
「俺も、アンタと同じく、『没落』せねばならんのだ! 俺がこれから会いに行く人間どもが、そう呼ぶであろう『没落』をな!」
「だから祝福しろ! おお、嫉妬することなく、他人の巨大な幸福(つまり俺の幸福)を黙って見ていられる、その静かなるマナコよ!」
「この溢れんばかりの杯(俺の知恵)を祝福しろ! この水が黄金色に輝きながら流れ出し、至る所にアンタの歓喜のキラメキを運ぶように!」
「見よ! この杯は再び空になることを望んでいる! そして俺、ツァラトゥストラは、再び『人間』になることを望んでいるのだ!」
――かくして、伝説の引きこもり賢者ツァラトゥストラの、華麗なる社会復帰(没落)が始まったのであった。前途多難である。
2. 森のガチ勢との遭遇
ツァラトゥストラは一人、意気揚々と山を下りていった。誰にも会わなかった。そりゃそうである。こんな山奥に人がいるわけがない。
しかし彼が森に入ると、突如、草むらからガサガサと音を立てて一人の老人が現れた。まるで野生のポケモンのようである。老人は薬草か何かを探しに、聖なる庵から出てきたらしい。そして老人は、ツァラトゥストラを見るなり、こう言った。
「おぉ、この放浪者、ワシは見覚えがあるぞ。何年か前にここを通り過ぎたな。ツァラトゥストラとかいう名前じゃったが……ずいぶんと変わったのう。あの時、お主は自分の過去の灰を山に運んできた。だが今日は、その火を谷へ運ぼうというのか? 放火犯として捕まるのが怖くないのか?」
「うむ、やはりお主はツァラトゥストラじゃ。その目は純粋で、口元には嫌悪感を隠しきれておらん。それにその歩き方……まるで踊り狂っているかのようだ」
「変わったな、ツァラトゥストラよ。お主はまるで子どものようだ。目覚めた者、じゃと? これから眠れる者たちのもとへ行って、一体何をするつもりじゃ?」
「海のように孤独の中に生きてきて、その孤独がお主をここまで運んできた。ああ、今さら陸に上がろうというのか? わざわざその重い肉体を引きずってまで?」
突然の質問攻めに、ツァラトゥストラは少し戸惑いながらも、ドヤ顔で答えた。
「私は、人間たちを愛しているのです」
「なぜじゃ?」と聖者は言った。「ワシがなぜ森と荒野に来たと思う? それは人間たちを愛しすぎたからに他ならんのじゃよ」
「今、ワシは神を愛しておる。人間は愛さん。人間など、ワシにとっては不完全すぎる存在じゃ。人間への愛は、ワシを滅ぼす」
これに対し、ツァラトゥストラは少しムッとして言い返した。
「私が愛について何か語りましたか!? 私は人間に贈り物(俺の有り難い哲学)を届けに行くだけです!」
「何も与えるな」と聖者は言った。「むしろ、やつらから何かを取り上げて、一緒に運んでやれ。その方がよっぽど連中のためになる。まあ、お主がそれでよければの話じゃがな!」
「そして、もしどうしても与えたいのなら、施し以上のものをやるな。そして、それを乞わせてからやれ!」
「いや」とツァラトゥストラは反論した。「私は施しなど与えません。そこまで貧しくありませんので」
聖者はカカカと笑い、こう言った。「ならば、やつらがお主の宝をちゃんと受け取るか、見届けるがよい! やつらは隠者を信用せんし、我々が贈り物をするために来たとなど、これっぽっちも信じんぞ」
「我々の足音は、やつらの街では孤独に響きすぎる。まるで夜中に、太陽が昇る遥か前に誰かが歩く音を聞いた時のように、『あの泥棒はどこへ行く気だ?』と自問するだけじゃ」
「人間どものところへ行かず、森に留まれ! いっそ動物たちと暮らせ! なぜワシのように、熊の中の熊、鳥の中の鳥になろうとせんのじゃ?」
「では、聖者殿は森で一体何をしているのですか?」とツァラトゥストラは尋ねた。
聖者は答えた。「ワシか? ワシは歌を作り、それを歌う。歌いながら、笑い、泣き、そして唸る。こうしてワシは神を讃えておるのじゃ」
「歌い、泣き、笑い、唸ることで、ワシはワシの神である神を讃える。……で、お主は我々にどんな贈り物をくれるというのかね?」
ツァラトゥストラはこれらの言葉を聞くと、聖者にさっと挨拶し、言った。「私があなたに何を差し上げられるというのですか! いや、むしろあなたから何も奪わないために、早く立ち去らせてください!」――そして、二人はまるで子どものように笑いながら別れた。おじさん二人組の不気味な光景である。
しかし、ツァラトゥストラが一人になると、彼は心の中でこう呟いた。 「(まさか……! この森のジジイ、ネットに繋がらない生活してるからって、まだ『神は死んだ』っていう一大ミームを知らないのかよ……!)」
情弱乙、と心の中で悪態をつくツァラトゥストラなのであった。
3. 市場DEBUT! 俺の「超人」思想を聞け!
ツァラトゥストラが森に隣接する次の町に着くと、市場は大変な人だかりであった。なんでも、綱渡り芸人がショーをすると告知されていたらしい。絶好の機会である。彼は人々の前に進み出て、高らかに演説を始めた。
「皆さん! 私は君たちに『超人(スーパーマン)』を教えに来ました! 人間とは、乗り越えられるべき存在なのです! さあ、君たちは彼を乗り越えるために、一体どんな努力をしてきましたか!?」
<群衆A> 「え、誰このおっさん」 <群衆B> 「なんかヤバい勧誘じゃない?」
「これまでの全ての存在は、自分自身を超えて何かを創造してきました。それなのに君たちはどうだ! この大いなる進化の潮流から逆行し、人間を超えるどころか、動物に逆戻りしようというのか!?」
「猿が人間にとって何であるか? 笑いの種か、あるいは痛ましい羞恥の対象でしょう。そして人間もまた、超人にとってそうあるべきなのです! 笑いの種、あるいは痛ましい羞恥の対象に!」
「君たちは蛆虫から人間への道を歩んできた。だが、君たちの中にはまだ多くの蛆虫がうごめいている! かつて君たちは猿だった! そして今なお、人間はどんな猿よりも猿らしいじゃないか!」
<群衆C> 「ディスがすごい」 <群衆D> 「俺、猿以下だったのか…」
「君たちの中で最も賢い者でさえ、植物と幽霊のキメラにすぎない。だが私は君たちに幽霊や植物になれと命じているわけではない!」
「見よ! 私は君たちに『超人』を教える! 『超人』こそが、この地上の意味なのだ! 君たちの意志で叫びたまえ! 『超人が地上の意味である!』と!」
「兄弟たちよ、お願いだ! どうか地上に忠実であれ! そして、『天国が〜』とか『あの世の希望が〜』とか語るやつらを信じるな! そいつらは毒を盛る者たちだ! 自覚があろうとなかろうとな!」
「やつらは生命を軽蔑し、死にゆく者たちであり、自ら毒に侵された者たちだ。大地はもう、そんなやつらにウンザリしている! だからとっとと消え去るがいい!」
「かつては、神を冒涜することが最大の罪だった。しかし神は死んだ! そして、それと共に神を冒涜していた者たちも死んだ! 今や、大地を冒涜することが最も恐ろしいことなのだ! 地上の意味よりも、得体の知れないものの内臓を高く評価することこそが、最大の罪なのだ!」
<群衆E> 「内臓…?」
「かつて魂は肉体を軽蔑した。その軽蔑こそが最高だと考えられていた。魂は肉体をガリガリに、醜く、飢えさせようとした。そうすることで、肉体と大地から逃れられると考えたのだ」
「おお、その魂自体が、なんと痩せこけ、醜く、飢えていたことか! そして、残酷さこそがその魂の喜びであった!」
「だが兄弟たちよ、君たちに問う! 君たちの肉体は、君たちの魂について何を語っている? 君たちの魂は、貧困と汚れと、哀れな安楽に満ちてはいないか?」
「まことに、人間とは汚れた川である。その汚れた川を受け入れてもなお、不浄にならないためには、海でなければならない!」
「見よ! 私は君たちに『超人』を教える! 彼こそがその海だ! 彼の中になら、君たちの大きな軽蔑も沈むことができる!」
<群衆A> 「話が長い…綱渡りはまだか?」
「君たちが経験しうる最高のこととは何か? それは大いなる軽蔑の時だ! 君たちの幸福さえもが嫌悪となり、君たちの理性や徳さえもが嫌悪となる時だ!」
「君たちがこう言う時だ! 『俺の幸福に何の意味があるんだ! こんなの貧困と汚れと、哀れな安楽でしかない! 俺の幸福は、存在そのものを正当化するほどのものだったはずだ!』と!」
「君たちがこう言う時だ! 『俺の理性に何の意味があるんだ! ライオンが獲物を求めるように知識を欲しているか? いや、これも貧困と汚れと、哀れな安楽だ!』と!」
「君たちがこう言う時だ! 『俺の徳に何の意味があるんだ! 全然俺を狂わせてくれないじゃないか! 善とか悪とか、もう飽きたんだよ! 全部、貧困と汚れと、哀れな安楽だ!』と!」
「君たちがこう言う時だ! 『俺の正義に何の意味があるんだ! 俺は燃える炭火には見えない! だが正義の者とは燃える炭火であるはずだ!』と!」
「君たちがこう言う時だ! 『俺の憐憫に何の意味があるんだ! 憐憫とは、人間を愛する者が釘付けにされる十字架じゃないのか? だが俺の憐憫は磔刑なんかじゃない!』と!」
「君たちは、すでにそう語ったか? すでにそう叫んだか? ああ、君たちがそう叫ぶのを、私が聞いていたならば!」
「君たちの罪じゃない――君たちのその満足感が天に向かって叫んでいる! 君たちの罪の中にある貪欲ささえもが天に向かって叫んでいるのだ!」
「君たちをその舌で舐め尽くす稲妻はどこにあるのだ!? 君たちに接種されるべき狂気はどこにあるのだ!?」
「見よ! 私は君たちに『超人』を教える! 彼こそがその稲妻だ! 彼こそがその狂気だ!」
ツァラトゥストラがここまで語り終え、決めポーズをしたその時、群衆の中から一人が叫んだ。
「もう綱渡り芸人の話はいいから、とっとと本人を見せろよ!」
そして、すべての人々がドッとツァラトゥストラを笑った。しかし、その言葉が自分に向けられたものだと勘違いした綱渡り芸人は、(え、俺!?)と慌てて準備を始め、仕事に取り掛かったのであった。
(つづく)